1. はじめに
Bluetoothはこれまで近距離無線通信の主要技術として、音声・データ通信やIoT機器の接続に活用されてきました。しかし、GPSが利用できない屋内環境など、位置情報に関する精度には限界がありました。
Bluetooth 5.1で、新たに加わった「方向探知(Direction Finding)」の機能によって、位置情報サービスの分野に大きな可能性が広がっています。具体的には、「AoA(Angle of Arrival:到来角)」および「AoD(Angle of Departure:出発角)」という技術が導入されたのです 。これにより、これまでのRSSI(受信信号強度表示)ベースの大まかな距離推定ではなく、より正確な「角度情報」による位置推定が可能になりました 。結果として、サブメータ級の精度で端末やモノの位置を特定することが現実的となり、物流、製造、医療分野などでの活用が)期待されています 。
本記事では、Bluetooth 5.xで導入されたAoAおよびAoD技術の基本原理から、具体的な活用例、実装課題、そして今後の進化の方向性まで、徹底的に解説します。
2. AoA(Angle of Arrival)とは?
このセクションでは、AoAの原理と構成要素、具体的な利用例について詳しく解説します。
原理
AoAとは、受信側のアンテナアレイを利用して、送信信号が到達する方向(角度)を推定する技術です 。Bluetooth 5.1では、送信機(タグなど)は1本のアンテナから信号を発信し、受信機(ロケーター)が複数のアンテナ(アレイ)を使ってその信号の「位相差」を検出します 。各アンテナに到達する信号の位相差を解析し、波長とアンテナ間隔から入射角を干渉波解析的に推定する仕組みです 。
この位相差を検出するために、Bluetoothでは「CTE(Constant Tone Extension)」という一定のキャリア波を信号内に含める仕様を採用しており、この部分で位相を安定的に測定します 。
構成要素
- 送信機(タグ):単一アンテナでBluetooth信号を発信します 。
- 受信機(ロケーター):アンテナアレイとDSP処理回路を持ち、AoAを推定します 。
- CTE対応Bluetoothチップセット:方向探知プロファイルに対応しています 。
利用例
- スマート倉庫のピッキング支援:商品が置かれた棚の角度と位置をタグ付き台車から特定できます 。
- 屋内ナビゲーション:ショッピングモールや空港など、GPSの届かない場所での方向案内が可能です 。
- スマートオフィス:社員の位置に応じた空調や照明制御に活用できます 。
3. AoD(Angle of Departure)とは?
このセクションではAoDの原理と通信モデル、具体的な利用例について説明します。
原理
AoDはAoAと逆のアプローチで、送信機側(ロケーター)にアンテナアレイを配置し、複数のアンテナから順次信号を送信します 。受信機側(タグなど)は、アンテナアレイから送信されるCTE信号のIQサンプル(直交信号成分)の位相変化を解析し、送信角度を推定する技術です。
AoDは、比較的処理能力の低いデバイス(タグや一部スマートデバイス)でも受信・計算が可能である点が特徴です。これにより、エッジデバイス側に高性能なハードウェアを求めずとも方向推定が可能となります 。
通信モデル AoDでは、送信機(ロケーター)がCTE信号をアンテナアレイで順次発信し、受信機はその信号強度や位相差から方向を推定します 。Bluetooth 5.1規格におけるCTE送信のタイミング管理とIQサンプルの記録は、AoDにおいても重要なポイントです 。
利用例
- スマートフォンでのARナビゲーション:ユーザーの向いている方向に応じた案内表示が可能です 。
- 位置認識型ゲーム:方向推定によるキャラクターの反応制御に利用できます 。
- 資産トラッキング:低コストなタグで物品の動きを追跡できます 。
4. AoA・AoDの測位精度とユースケース

このセクションでは、AoAおよびAoDの測位精度と、具体的な応用事例について解説します。
測位精度
AoAおよびAoDは、理論上は1度未満の角度分解能を実現できますが、実際の精度はアンテナ設計、環境ノイズ、干渉条件などに左右されます。理想的な環境下では、角度推定の精度に応じて、位置推定精度は30cm~1m程度が可能とされています。
RSSIベースの位置推定が3m以上の誤差を伴うのに比べ、AoA/AoDは大幅に精度を向上させます。特に屋内環境でのRTLS(Real-Time Locating System)においては、AoA/AoDを用いることで、高精度・リアルタイム性の両立が実現できますす。
応用事例
物流:倉庫内でのフォークリフトのリアルタイムトラッキング
従来の倉庫管理では、フォークリフトの動線や在庫品の位置把握に人の目や紙ベースの記録が頼りでした。Bluetooth AoA/AoDを活用したRTLS(リアルタイム測位システム)を導入することで、フォークリフトやパレットに取り付けたBLEタグの位置を30cm〜1mの精度で継続的にトラッキングできます。
例えば、天井や柱に設置したロケーターが、フォークリフトからの信号をAoAで受信し、現在位置や移動方向をリアルタイムに把握。システム側では、物流ルートの最適化や、作業効率の見える化が実現できます。誤配送の防止、作業時間の短縮、安全対策の強化など、複数の業務改善効果が見込めます。
製造業:工具や部品の使用状況を把握し、作業工程を最適化
製造現場では、組立用の工具や部品が多数存在し、これらの位置や使用状況を正確に把握することが、生産性の向上やミスの削減につながります。AoD技術を用いれば、工具や部品に小型タグを装着し、作業者がどの方向から工具に接近しているか、どの場所で使っているかを正確に取得できます。
例えば、電動ドライバーに装着したタグの信号を工場の天井に設置したロケーターが送信し、その方向情報を作業者のスマートデバイスが受信・解析。どの作業ステーションでどの工具がどの時間帯に使われたかを自動で記録できます。これにより、工程ごとの時間配分の最適化や、工具紛失の防止にも役立ちます。
医療:患者の位置把握による見守りやスタッフ動線分析
病院や介護施設では、患者や高齢者の行動をリアルタイムで見守ることが求められます。AoA技術を使えば、患者に装着したリストバンド型BLEタグの方向と位置を高精度で把握でき、徘徊や転倒の兆候を早期に検知することが可能です。
また、医師や看護師の制服にタグを取り付け、動線データを可視化することで、業務の偏りやスタッフ間の連携のボトルネックを分析できます。病院内での感染症対策においても、誰がどのゾーンにどれくらい滞在したかを記録する用途に活用されつつあります。
イベント会場:来場者の動線把握と混雑の可視化
大型展示会やスタジアムなどのイベント会場では、来場者の行動パターンを把握することが、混雑緩和や導線設計に重要です。AoDを活用したシステムでは、来場者のスマートフォンや配布用タグからの受信信号をもとに、各ゾーンへの滞在傾向や移動方向をリアルタイムで把握できます。
例えば、人気ブースの周囲に混雑が集中していることがわかれば、会場アナウンスやデジタルサイネージで導線を誘導したり、スタッフを配置して安全対策を強化できます。また、来場後の動線分析データをもとに、次回のイベント設計やスポンサー向けレポートにも活用可能です。
5. 実装上の課題

このセクションでは、AoA/AoDの実装におけるハードウェアと環境に関する課題を詳しく解説します。
アンテナ設計と多様な配置要件
AoA/AoDの精度はアンテナの設計に大きく依存します。指向性のあるアンテナアレイを配置し、正確な位相測定が可能なレイアウトを確保する必要がありますが、設置環境によっては反射や遮蔽の影響を受けやすくなります。
さらに、ロケーターの配置が制限されるようなケース(壁面、狭い空間など)では、アンテナアレイの構成にも工夫が求められます。
ハードウェア精度と干渉ノイズの問題
位相差測定にはナノ秒単位の精密な時間計測が必要であり、使用するクロックの安定性やサンプリングタイミングの精度が直接精度に影響します。加えて、同一周波数帯(2.4GHz帯)を利用する他の無線機器との干渉によって、信号品質が低下するリスクも無視できません。
チップセットの制約とコスト
方向探知に対応したBluetoothチップセットは、一般的なBLEチップよりもコストが高く、また消費電力やサイズにも課題があります。量産製品への組み込みにはコストと性能のバランスが重要です。
6. ソフトウェア・アルゴリズムの課題
このセクションではAoA/AoDにおけるソフトウェアアルゴリズムの課題について説明していきます。
到達角度推定のための信号処理技術
位相情報から角度を推定するためには、信号処理アルゴリズムの導入が必要です。代表的な手法としては、MUSIC(Multiple Signal Classification)法やESPRIT(Estimation of Signal Parameters via Rotational Invariance Techniques)法が知られています。
これらは高精度な角度推定が可能である一方、複雑な数値計算を伴うため、リアルタイム処理や省電力処理には工夫が求められます。
環境によるマルチパスの影響
屋内環境では壁や天井などによる信号の反射(マルチパス)が生じやすく、信号の到達角度を誤認する原因となります。特にAoAでは、受信信号のうちどれが「直接波」かを判別することが難しく、角度推定精度を大きく左右します。
このような環境ノイズへの耐性を高めるためには、複数センサによる空間分散や、フィルタリング処理の工夫が求められます。
7. 今後の技術進化と対策の方向性
Bluetooth 5.2や5.3では、方向探知の機能自体に大きな変更はありませんが、低遅延・低電力通信(LE Audio、Isochronous Channels)などが導入され、一層活用の範囲が広がり様々なアプリケーションが構築しやすくなっています。
将来的には、Bluetooth 6.0やWi-Fi FTM(Fine Timing Measurement)とのハイブリッド測位や、AIによる位置推定補正アルゴリズムの活用なども期待されており、測位技術の高度化と実装性の両立が進む見込みです。
また、標準化団体(Bluetooth SIG)によるユースケースガイドラインの整備や、ベンダーによる開発支援ツールの充実も今後の課題克服に貢献していくものと期待されます。
8. まとめ

Bluetooth AoA・AoD技術は、従来の測位技術では難しかった高精度な屋内位置推定を可能にする革新的なソリューションです。一方で、アンテナ設計やハードウェア精度、マルチパスへの対応といった実装上の課題が存在し、これらを理解した上でシステム設計を行うことが重要です。
将来的には、通信規格の進化やソフトウェア技術の成熟によって、さらに汎用性の高い測位システムの構築が可能となるでしょう。製品開発者にとって、AoA・AoD技術は単なるトレンドではなく、今後のIoTやスマート空間実現の鍵を握る重要な要素となるはずです。